昭和51年09月22日 朝の御理解
御理解 第68節
「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心経やお祓いをあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。拍手も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり節をつけたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め。」
本当に神様の願いであるところの、氏子信心しておかげをうけてくれよと仰る、おかげと言うのは限りないおかげに繋がる。子孫にも残しておけ、あの世にも持って行けると言うそう言うおかげ、いわゆる信心の徳であります。そう言う信心をいよいよ身につけさせて頂かなければならない。それにはもうこれはお徳を受ける条件です。それがここにあります、身に徳を受ける修行と言うのは、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。これはもう絶対のお徳を受ける為の条件ですね。
皆さんどうでもね、お徳を受けて本当に安心のおかげを頂いて、喜びと安心にそして取り越し苦労のない、心配のないそう言うおかげの頂かれる信心を、いよいよ身につけなければいけない。それは自分の都合のよい時だけお参りをする、お願いをするおかげを頂くそれはそうであります、でそれならばなら毎日一生お参りし続けたと言うて、なら私はお徳を受けられるもんじゃないと思う。そりゃ雨の日も風の日も参ったと、けれどもそのお徳は受けられなかったと言うなら、人も沢山あろうかと思うんです。
だからその内容がどう言うお参りで、なからなければならないかと言う事で在ります。それこそ神に嘘を言う様な信心が、いかに続いてもいかに形が立派に出けても、信心が例えばよし詳しゅうなっても、それではいけんのです。昨日もお話し致しましたが、今度の月次祭に宮崎から3台の車に分乗して、お参りがありました。中にいろいろの願いを持って、始めてお参りをして来た方と言う方達が、五、六人おりました。もうその人達がもう本当にもう見事におかげを頂いて、昨日はお礼の電話が掛って参りました。
本人達からも又は中心になっておられる、石川のお婆ちゃんとか、かよこ先生のお母さんの田中恵美子さんとかから、もう車の車中の中でおかげを頂いて行った事を、帰ったら途端にこんなおかげを受けておったと言う様な、お礼のお届けでした。中に自動車のセールスをする人があるけども、この頃全然その売れない。それにあの黒木さんて言う方が、あんな毎月30台35台と言う様に、そのしかも現金どんどん売れて行くと言う、皆んなが目を見張って訳を聴くと。
合楽にお参りをされてからげなと言う事で、私も参って来たがあの新しく参って来る方達の、あのうここでカードが出けておる、その願いの中にもその事が書いてあった。最近車がその全然売れないから、どうぞ車が売れますようにと言う訳なんです。帰らせて頂いたら電話が掛って来た、そしてどこどこから明日車がいるから、来てほしいと言う電話であったと言うのですよ。
あたし昨日それこそお祭りを頂き頂き、おかげを頂いてあのうものを言わない子供が、あれはあのう子4歳だそうです。あのうものを一言言うたと言うて、もう一晩中感動してもう車の中でもう感動のしどうしで、そしたら途中からね、そのうジャンケンポイと言うごとなったげなたい。ハハハ。もうそれこそもう皆ながそれ感動しまして、ずうっとジャンケンポイジャンケンポイち言うて帰ったち、もうそれこそ嘘のような夢のようなお話しなんです。勿論あの石川のお婆ちゃんのお話しやら、お届けやら。
田中さんはのはもう本当にあのう、涙声でよう声が聞き取れないぐらいなお礼の電話が掛って参りました。そこで私昨日3時からいつも研修を致しますから、ここの先生方修行生の方達に皆一緒に研修させて頂く時に申した事ですけど、どうしたならば宮崎の地区達にあの様な、いわゆるシャープなおかげが頂けておるのだろうか、言わば凄まじいまでのごひれいが輝くのであろうか、あんただんどう思うかと言うて皆んなに私は一人一人問いました事でした。結局結論としてね、何ち言ったかねとにかく純粋だと言う事です。
えぇと何えぇとあっそうそう、もう理屈抜きにした純粋さと言う結論が出ましたよ。お互いのはねどうも理屈が多い過ぎるようです。そして純粋度と言うものがだんだん散漫になってきよるです。これはどうしてもねお互い信心の稽古さして頂く者が、この理屈を抜きにした素直さと言うか、純粋さこれはもう絶対の必須の条件です。おかげを受けるにも又徳を頂く信心を進めて行くにも、そう言う信心を求めながら、言うならば日参りが続き雨が降るから風が吹くから。
えらいと思うてはならぬと言う様な、そう言う信心を内容としていよいよその純粋の度は高められる。いよいよ無条件理屈抜きの信心が、続けられるところからでなからなければ、私はお徳は受けられない、お徳を受けると言う人は皆んなそうなんです。いいですか月に何回でも、自分に都合の良か時だけでも、そしてお話を頂いて信心が詳しくなって行く事は有り難い、信心が身について来る事も有り難いね、けれどもやはり私は今日はぎりぎりこの68節のです、神参りをするのにね。
言うならば言い訳をしてはならない。もうそれだけに専念しなければいけない。お参りに専念する、そうしてからの家業である。しかもそのお参りの内容が理屈抜きにしての純粋さ、この純粋度と言うものを高めて行く精進、それがなされなければならない。昨夜菊栄会でしたから、終わってから皆んな文男先生と正義先生は、私が足を揉んでくれる為にやって参りました。
後から又戎浦さん高橋さんそれから東さん、ちょうど田主丸のにお話しに行って帰って参りました、秋永先生も一緒に出したから何人でしたか、五、六人ですねですからまぁ信心のよもやま話しに、足を揉んでもらいながら、肩を揉んでもらいながら、させて頂いた事ですけれど、今の話しをして頂いた本当に信心には、あの純粋度と言うもの、それに理屈抜きにしてと、どうしてと言う事じゃない。
昨日お話しさして頂いてる時に正義先生が、大変あのまぁなかなか話が皆さんご承知のようにお話が上手ですから、なんか話術に引っ掛かった様な感じで、聞かせて頂いたんですけど、親戚の方が呑み過ぎて川に填って、助けられて帰った話をしたんです。ところが何処が可笑しかったか分からんけれども、もうとにかく時間を計ったら30分位上じゃなかったかと思うです。その六人の者がもうそれこそ腹がよじれるように、秋永先生顎が外れるちこうこうして痛うして答えんち言う訳ですよ。
はぁ畳を叩いて笑う自分の膝を叩いて笑う、私もうあぁ言う本当に笑いと言うもの初めて体験しました。とにかく腹痛いから辞める止めると向こうが笑う、そりけん笑うけん又笑う、等々高橋さんは逃げ出しました、そいで又入ってきません、又笑うもう顔色を変えて笑いましたですね。そして文男さんが、私の肩叩きながら、いっちょんおかしなか話にどうして笑うかち、言うならば理屈抜きにして笑うたと言う事です。
もうそれ本当に真から笑うから痛いお腹が、もう腹んいとしてもう笑いなさんな、言うばってん笑うち言うごとある、もう本当私しゃ夕べばっかりは不思議で不思議でたまりませんでした。例えばそして正義先生が、あたしゃそげな笑い話したちゃなかですよ、可哀想な話をしたんですよち言うから、又笑いだした。ははは。そりゃもう本当隣に寝とる家内はもうビックリシャックリしとるじゃろと思うです、もうそれがあぁたもう倒れ転びせんばっかりしてから、ほんなこてこう顎出してから笑いよる。
信心にはねだからそう言う様なものが必要だと言う事なんです。何故って言う事はない。そう言うそのまぁありましてから、皆んな帰りましたからもう2時半でしたでしょう。それから休ませて頂いたら、今朝方から私お夢を頂いた。そのお夢と言うのがこ、こ御結界でそのお届けをしておられるが、丁度あのう沖縄当りのあのう女の水商売の方でしょうね。高い髪結うでしょう沖縄まじゅつですかね、それをもっと高く結ってある訳です髪をね、あんな髪は見た事ないち言う様な髪を結って。
実にあの見事な態度でお届けをするんです。そしてあのもって来ておるのが何かと言うと、あのアルミで出来たお酒のお燗をつけるのがあるでしょう、あれを持ってきとる訳です。そしてその夢を私今朝から頂いて、昨日からズット話して来た言うなら、宮崎の方達があのようなそれこそ凄まじいまでの、おかげを受けて行かれると言うのが、どう言うところに原因があるかと、それはまぁ結論として純粋さ、しかも理屈抜きにした純粋さ、私今日そこんところをね有り難そうに。
心行へいや大祓いを挙げても心に真がなければと言う、心に真がなければと言う事。なら有り難そうに心行や大祓いをと言う事。心行を覚えても大祓いを憶えても、金光様の信心の様々なお話しを言うならば知っておっても、心に真がなければと言う、心に無条件の言うならば純粋な、しかも理屈抜きの心がなければと説いて、ここを頂いて貰いたい。皆さん真がなければと言う事はそう言う事ね。
そう言うのは神に嘘を言うのも同然じゃ、拍手も無理に大きな音をさせるにはおよばん、小さい音でも神には聞こえると言うところをです、拍手も無理に大きな音をさせるにはおよばん、言うならば形にこだわらんでもいい。例えば段々ここの信心のひとつのが身について参りますと、金光様の信心振りと言うものが身に付きますよね、高尚が何十年と言った様な教会の身には、何十年続けた信者さん達が、もう一目見ただけではぁ金光様の御信者ばいなと、もう素晴らしい言うなら姿勢態度とでも申しましょうか。
もうそりゃお届けの仕方でも、そりゃ実に見事にされる方がありますよね。けれどもそれは何年信心しておろうが、何十年信心しておろうが、頂きたいというのは有り難いと言うもんでなければ、いけないと言う事です。信心すれば一年一年有り難うなって来ると仰せられるが、有り難くなって来ると言う有り難いというものを、頂く為に身につけなければです、お徳にはならないと言う事、いいですか今日はおかげとお徳をハッキリ区別して皆さん聞いて頂いておる訳ですよ。
今日はだからお徳を頂く為にはのお話しなんです。お参りしとるさえしとりゃ、なんとはなしにおかげを頂く、けどもお徳を頂く為にはその内容が、純粋ないわゆる理屈抜きにした信心、それはもうだから素朴なまでの信心と言う事になるでしょうね。それをなら宮崎の最近お参りをなさって、それこそ宮崎地区に一代合楽の御比礼が輝き出して来たと言う、おかげを受けておる一人一人がです、もうそりゃ本当にそう言う感じです、そう言う内容がなら何十年してもその内容はなからなければならない。
同時に雨が降るから風が吹くからと言った様な事、いとうようではですお徳おかげにはなってもお徳にはならん、その辛抱こそが身に徳を受ける修行じゃと仰る。もう合楽に御神縁を頂くなら、本当にご神徳を頂くと言う事が、言うならば願いでなからなきゃならんです。いかにおかげ頂いたからと言って、おかげ頂いたおかげはあの世には持っていかれんです。いうならこうやってだんだん信心しよりゃ、いつの間にか頂くじゃろうと言ったようなもんでも決してない証拠は、なら百年経った金光教の中に。
どれだけの人が信心したか分からんけれども、お徳を受けたと言う人は、大して沢山はおらんと言う事なんです。言うならばだんだんと金光様の信心振りと言うものが、気障なまでに出けたと言うなら信心、神と言うのは信心と言う事です、それこそ人が言わんごたる、神をこう結い上げておる訳です。形も姿勢も立派です。けれどもそこに持って来ておるものは、何かち言うとあの燗つけと言いますね、お燗するところの言うならば、御神酒と言うものは冷やでなからなければならないと言う事。
有り難き勿体無き、御神酒の間は有り難いけれども、それが度を過ごすと酒になる、酒になると酔狂が出るようになると、言う御教えを何十年も前に頂いた事があります。お互いの御教えが理屈がついて来た。確かにあり難き勿体無きのお酒を頂きよるけど、それを自分で捻る訳です。自分であれこれと理屈をつける訳です。と言う事はもう燗をつけよる訳です。だから燗しようもんだから有り難き勿体なきじゃなくて酔狂が出よる訳です。この酔狂と言うところをひとつ、はぁ自分が酔狂と言う事はどう言う事だろうかと。
いよいよひとつ本気で思うてみらなければいけないと思います。信心が巧者になって来れば巧者になって来る程、様々な信心が信心を教えてくれると言う事もありますけれども、信心が巧者になってくると言うならば、我流の信心とでも申しましょうか、そう言う様な事になって、御神酒が燗酒になったんでは酔狂が出る。酔狂が出るようになったら、もうお徳は受けられないと言う事です。自分のすきがないごと出けておっても、なら頂く御神酒もやっぱり頂いておるんですよ。
なら皆さんも今日の御理解を頂いて、はぁほんなこつそうじゃ有り難いなぁとこう思うたら、もう頂かれた訳ですけれども、それをなら自分で又言うならわが心からも練り出すがよいと言うのが、よい練りだしでなくてね、お徳の受けられない有り方に、理屈をつけるような事ではです、もうそれから先は酔狂です。お徳のいよいよ受けられる練り方をしなきゃいけんです。おかげを受けられるコツはいくらもありますよ。だからおかげを頂くコツさえも又体得させて貰わにゃならん。
そりゃ体験して行くとだんだん、ははぁおかげちゃこう言う時頂くとばいなと、言う風に自分でもはっきり、自分のものになってくると言う事ですよね、有り難いけれどもそれがやっぱりお徳にならなければいけないと言う事です。それにはね例えば、昨夜私共がそれこそ、30分間余りでしたでしょうか、もう本当にもう転び廻らんばかりにして、しかも大の男が六人ですか、七人ですかね私も含めて。
もうそれこそしまえには私の部屋で、もうとにかく腹を叩き顎を抱えて笑いよる情風を、いっちょ思い出しそしてもう笑いなさんなと言うてからね、いよいよ又笑いよる、もうそれこそ笑いの輪が次から次とこう広がって、その元と言うのは別に対して、笑わねばならんと言った事でもないのにですね、いわゆる何と言うでしょうか、私のところに集まって来る時には、もう何んか知らんけれども、それこそ子供のような純粋さで集まって来るんだと思うです。
そこに例えばなら有り難いもの、今の笑いなら笑いでもそのような勢いで、言うならば広がって行く。だからどうでも自分の信心のあのう純粋度、言うならば昨日宮崎の方達がおかげを受けた、受けて行くあぁいうおかげを受けて行く姿が、何処からどう違えばあのようなおかげになって来るのか、まぁいろいろ出ました。けれども結局ギリギリ結論として、ならあのう申しました事は、理屈抜きな純粋さだと言う事です。
だからその理屈抜きにしての純粋さと言う様な、信心を求めて行く姿勢を、もういっちょう作らなければ行けない。同時に信心の徳を受けると言う事には、もうこれは絶対のもの必須の条件、雨が降るから風が吹くから、自分の事情ぐらいな事で、例えば言い訳のするような信心ではなくて、一にも神様ニにも神様三にも神様と言う、そう言う信心同時にその内容が、今聞いて頂きましたような純粋な素直さ。
理屈抜きにした純粋さと言うものを求めながら、例え御教えを捻りに致しましても、お徳に繋がる捻り方をさして貰わなきゃならん、折角頂いたお神酒を、お燗をして熱くして燗をして頂くと、それには魚のひとつも又要るようになる、その辺から間違うて来るです、お神酒さんを頂く時にお魚がなからにゃと言う事はないでしょう。この辺のところま一遍皆さんがお徳を受けられる生き方に、練らせて頂いてどうでもお徳を受けなければならんと、言う姿勢で信心を進めて行きたいと思います。
どうぞ。